01 

 警察庁から四キロほど離れた場所に、その喫茶店はあった。
 存在感はあるが、わずかに褪せた赤レンガ調の外壁。板チョコレートそっくりの小さな扉。何ともありがちである。コンクリートで塗り固められた風景に、無理矢理童話の一部分だけを嵌め込んだかのような低い建物を見上げ、降谷は思った

 すりガラスの向こうから、温暖色の灯りがやわらかく漏れている。
 所々めっきが剥がれたドアノブに手をかけ、降谷が体重を前にかけると、涼しげなベルの音が店内に響き渡った。「いらっしゃいませ」通常、来店を悦喜して然るべき店主の挨拶は低く淡々としている。どこか不機嫌な風にも聞こえるそれに、降谷はカウンターに立っている老齢の男を一瞥した。男の顔に、愛想の色はない。
 どこか懐古的な雰囲気が漂うアンティークな内装、焦げたコーヒー豆の匂い。そして。おそらくソファに染みついているであろう煙草の匂い。よっつあるうちの、壁際のボックスには身なりの整った白髪の婦人が二人。テーブルには灰皿が置かれてあるが、彼女達がそれを使用した形跡はなかった。昔ながらの純喫茶だ。
「零、こっち」
 背後からふいに名を呼ばれ、降谷は振り返る。
 彼のちょうど真後ろに位置している窓際の席で、女が一人そこに腰かけていた。彼女は手元の文庫本にしおりを挟むと、軽く微笑んで見せる。
「悪い。待ったか」
「ううん。それより、久しぶりにスーツ着てるとこ見た」
 古びた木製のチェアを引き、女と向かい合う形で腰を下ろした降谷は、その場でひとつ小さく息をついた。正面に座る彼女は、降谷と同じように薄手のスーツを着ている。どうやら彼と同じく、仕事終わりのようだ。
 ミネラルウォーターがそそがれたグラスと、メニューブックをトレーに乗せた店主が二人のもとへやって来る。目の前に置かれたグラスの中身で喉を潤しながら、降谷はホットコーヒーを注文した。差し出されたメニューブックには目を通さなかった。
「感じ悪い」
「どっちが」
 店主がカウンターの中に戻ったあと、ぽつりと女は呟く。続いて間髪入れずに言葉を返した降谷は、特に悪びれる様子もなく、スーツのポケットからスマートフォンを取り出した。仕事のメールを確認するためだ。
 ――何とも可愛げがない。手持無沙汰になった女は冷めたカフェラテを一口飲むと、そのまま視線を落とす。すると、ストッキングの太腿の部分が少しだけ伝線していた。どうやら爪を引っかけてしまったらしい。
 注文したホットコーヒーが運ばれてくるのに、時間はかからなかった。「お待たせしました」飲食店では当然のように耳にする呼びかけもなく、そのカップはテーブルの上に置かれた。次に、ミルクピッチャー。降谷は普段、嗜好品の類に砂糖やミルクを入れない。しかし彼は、ステンレスのそれを突き返さなかった。
「ごゆっくりどうぞ」
 よこされた言葉とは裏腹、店主の徹底した愛想のなさに。つい我慢ができず、女は無意識に上がる口角を隠すべく顔を伏せた。わざとらしい咳払いが彼女を咎めた。
 仕切りの向こうから、賑やかな談笑が聞こえてくる。おそらく今、降谷は険しい表情をしていることだろう。『安室透』という男は気が長く穏やかだが、『降谷零』という男は、ことのほか短気なのだ。
 女が顔を上げられずにいると、その視界の隅に、褐色の指がテーブルの上へと伸びているのが見えた。白いシュガーポットの中から角砂糖がひとつ、ふたつ。黒みを帯びた深い茶色のコーヒーの中に、小さな正方形が溶けてゆく。
「仕事、忙しいの?」
「何だよ。藪から棒に」
「コーヒー甘くしてるから。疲れた時、いつもそうしてる」
「……よく見てるな」
 ちらりと女が視線を持ち上げる。決して穏やかなわけではないが、その表情は不機嫌といった風でもない。カップの中身をスプーンでかき混ぜながら、降谷は言った。
「まあ、わりと立て込んでる。その本面白い?」
「うん。読み終わったら貸そうか。恋愛小説だけど」
「確か今度、映画化するんだよな」
「嘘。いつ?」
「さあ。ネットのニュース記事で見ただけだから、そこまでは」